ゴールデンカムイの主人公の杉元殿と、作者・野田サトル先生の御曾祖父・杉本殿が参戦していた日露戦争・旅順攻囲戦に私の曽祖父も参戦していた話の続きです。
今回は、勲章についている証書をみて気づいたことについて調べてみました。その辺を中心に書いていこうと思います。
目次
1.軍曹の役割
勲章箱には勲章と桐の証書入れが入っており中を見てみると、そこには階級が書いてありました。
曽祖父は、日清戦争で一兵卒からの叩き上げで上等兵となっており、日露戦争では軍曹として参戦したようです。
(↓ゴールデンカムイに登場する月島軍曹と同じ階級ですね)
軍曹というと分隊を率いる役目があるようです。軍曹という階級は、10名程度が集まった分隊という単位を指揮する最前線のまとめ役と言った感じのようです。
前回の「軍の編成」を調べた際に分かったのですが、実際は 「組」と「班」という単位が「分隊」の中に存在していて、それぞれ組長と班長がいるということでした。
例えば、10人の分隊を2人1組で5組に分けた上で、それをさらに2班に分けたりするのでしょうか?
二手に分かれたり、協力して前進する時に別々の指示を出す必要があったからだと思いますが、それを指揮することは、すごく大変そうですね。部下の命に対する責任も重いと思います。
ここからは、しばらく私の妄想タイムに入りますが、ご容赦ください。
「A班!止まるな前進しろ!全滅するぞ!」
「止まれば、3方向から十字砲火を受けるぞ!前方の陣地まで距離をつめろ!」
「B班のC組とD組は鉄条網を破る準備と爆弾の準備をしておけ! 」
「E組とF組は制圧射撃で手前の陣地を黙らせろ!その間にA班は前進して陣地を潰して、周辺確保せよ!」
「前方の敵陣を奪取したら左の要塞の側面を衝くためA班はただちに前進!B班は援護射撃でA班の前進を支援せよ!要塞から敵が顔を出せないように撃ちまくれ!」
「あの奥の陣地の機関銃手は私が対処する。」
(↑前回の流れでは 小銃射撃記章を胸に、こういうこともやっていそうです。)
こだます銃声の音、排出される薬莢(完全に妄想です!)
「よし!要塞をつぶして他の分隊を支援するぞ!」
一緒に戦いながら、こういった指示を出しているイメージですが、合ってるんでしょうか?
(↓第7師団の鯉登少尉です。薩摩出身で一の太刀に命をかける示現流の使い手ですね)
あまり詳しくないので「その辺は曹長とか小隊長が出す指示だよ」と示現流で鯉登少尉に修正されそうですが、
上官から指示を受けたら、どのように兵を動かすか考え、士気を高め、部下の命を預かって人頭指揮を執っていたのが想像できます。
いままでは「映画」として見ていた「203高地」ですが、自分だったらどう行動するのか問われているようで、途端にリアリティを増してきました。
当時の状況を調べてみると過酷としか言えないですね。おそろしい状況だったようです。
2.旅順攻囲戦の実態
この旅順攻囲戦は、とにかく時間との戦いでもあり、突撃せざるを得ない状況だったようです。
なぜ時間との戦いだったかというと、この旅順攻囲戦で203高地を奪って、その203高地から眼下に見える旅順港に停泊しているロシア艦隊を砲撃して沈めないといけなかったからです。
早いことやっつけてしまわないと、ロシア主力艦隊が応援に駆けつけて、日本海軍は挟み撃ちで敗北が確定するからです。だから鉄壁の防御陣に対して突撃を敢行してでも敵陣を奪うしかない状況だったようです。
(↓日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎は、渋谷区神宮前の東郷神社に祀られています。この日本海海戦で勝利を掴むためにまずは203高地を落とす必要があったということです)
ここでの突撃というのは漫然と無謀な突撃を敢行するのではなく、きちんと塹壕を掘り進めて、できるだけ敵陣の近くまで兵を進めてから突撃する正攻法とか、夜陰に紛れて少数精鋭で夜襲をかける白襷隊の編成など、兵の損耗をできるだけ防ぐように配慮して試行錯誤をしながら戦っていたようです。
これらの戦術は各国から見学に来ていた軍人に評価され、正攻法は強力な火力支援を伴う中で有効性を認められ、白襷隊はドイツの「浸透戦術」という戦い方の雛形になったと言われています。
旅順攻囲戦では大きな犠牲を出した白襷隊でしたが、その猛攻の後にはロシア軍守備隊は数名しか残っておらず、要塞は陥落寸前だったそうです。ロシア軍はその勇猛果敢ぶりを称えていたとのことです。
このような旅順攻囲戦での日本軍の戦い方は、外国では非常に評価が高かったようです。
しかし、ロシアの要塞ができすぎていたことと、このような要塞と全面対決したことが世界史的に見ても初めてのパターンだったそうなので、相当な兵士が犠牲になってしまったようです。
これは、ちょっと旅順攻囲戦の話と一緒にするのは違うような気もするのですが、突撃はある状況下では、それが最善の策というか、それしかないということがあるようです。
相手に待ち伏せをされて一斉攻撃を受けた時は、基本的には攻撃された方向に向かって突撃あるのみだそうです。
それはなぜかと言うと、突撃しないでその場で留まると全滅し、後退すればもっと被害が出るように待ち伏せる側が布陣しているからだそうです。
映画「203高地」では、伊地知幸介将軍が突撃している隊が途中で止まってしまったのを見て「前進しなければ全滅するぞ!」と言っていたのが印象的です。
ロシア軍の旅順要塞はただの待ち伏せと違って、コンクリートや土嚢で防御した陣地を塹壕で繋いで多数配置してあり、その陣地には大砲や機関銃が備えてあったようです。また、下の陣地が陥落しそうになると船舶用の丸っこい機雷を投げて陣地もろとも吹っ飛ばすような策もロシア軍は講じていたようです。
そんなロシアもロシアですが、そんな用意周到な要塞を落としてしまう日本も日本ですさまじいですね。
3.曾祖父の功績
そんな凄惨な戦場をくぐり抜けて私の曾祖父はよく生きて帰ったものだと思います。本当に運が良かったんだと思いました。
しかし、後から父から聞いた話では運が良い上に、勇敢だったのだろうということを聞きました。
この話は旅順攻囲戦での出来事なのか、奉天会戦での出来事なのかはっきりしないところはあるのですが、
前線で負傷した上官を背負って助けたということで、金鵄勲章を受章されたとのことでした。
その詳細について私の父はほとんど聞いたことがないということでした。祖父が生きていれば、もう少し詳しく知っていて教えてくれたかもしれません。
ただ、旅順攻囲戦も奉天会戦も相当な犠牲者が出た戦いだったとのことなので、亡くなられた部下もいたのではないでしょうか。辛いこともあったのかもしれません。母方の祖父も太平洋戦争に行っていますが、戦争のことは、あまり語りたがりませんでした。
いまとなっては、もう遅いのですが、祖父には「さぞや大変だったでしょう。ご苦労さまでした。ありがとうございます」の一言も言えばよかったと思います。
戦争から帰国した際に国全体があたたかく迎えてくれなければ、いかに悲惨なことになるかは、ベトナム戦争帰還兵などの話でよく聞きます。
そういう点では日本はどの国よりもできていたのではないでしょうか。
勲章を与え恩給を出して、きちんとした論功行賞が行われていたということは、すばらしいことだと思います。
野田サトル先生がおっしゃられるように、「名誉とマネーを掴んだという話に胸が熱くなる」というお気持ち、まったく同感です。
負ければ他国からの侵略を受けていたかもしれない情勢下にあって、極限状態の中で務めを果たした曽祖父の苦労をねぎらい感謝するとともに、きちんと論功行賞をしてくれた明治天皇や大給亘さんに「いいね」を押しまくりたい気分ですね。
さて、曾祖父は、戦後は金属関係の仕事を生業とし、その業界の組合長をしていたそうです。 太平洋戦争が始まって戦局が悪化する中で、金属類回収令という勅令が出された折には、長である以上は率先して金属を供出すると言って廃業してしまいました。その後、彼が貰っていた恩給は国債になりましたが、敗戦後は紙切れとなり支給も停止になったそうです。
勲章をもらって英雄視されていたし、恩給をもらっていたから率先して国のために奉公するという選択しかなかったんだろうと父は言っていました。
他人を思いやる気持ちもあったのではと思いますが、我が家の家族の性質からすると、もしかすると「助けてくれ!」と言われたら「はい!はい!」と二つ返事で承知する雑念のないタイプの人だったのかもしれません。
曾祖父は太平洋戦争が終結してまもなく亡くなりました。
曾祖父がもし生きていたら、今の日本をどのような気持ちで見るのでしょうか?
どのような状況下に置かれても、他人を思いやる気持ちを大事にして行動に移せるということは本当に勇気がいることだけれど、大切なものだと教えられているような気がします。
戦争の侵略だとか殺戮といった部分に目を向けると、とたんに話をし辛くなる面はあります。しかし、そういった極限状況下において野田先生の御曾祖父殿も、私の曾祖父も、「仲間のために命をかけるということは尊いことだ」と思いました。
戦争は恐ろしいですし、肯定するつもりはありませんが、極限の状態の中で現場に趣いて必死で戦った人達には敬意の念を持って、「さぞや大変だったでしょう。ありがとう」の一言を心に浮かべつつ、今年のお盆を迎えたいと思います。
(終わり)
ちなみに、ゴールデンカムイ作者の野田サトル先生の御曾祖父殿のお話はこちらのブログで拝見いたしました。
野田サトル先生の御曾祖父殿のお話は、町山智浩先生との対談でも話題にのぼっておりました。
(映画「203高地」YouTubeチャンネルで予告編を見る)
コメントを残す