前回分はこちらの記事です↓
さて、前回に引き続きゴールデンカムイの無敵の杉元の話と重ねて、曾祖父が日露戦争でいただいた勲章に関していろいろ調べてみたので、それを書いてみようと思います。
目次
1.曾祖父の勲章箱
2.なぜ杉元は勲章をもらえなかったのか
3.日比谷焼打ち事件
4.金鵄勲章の価値
1.曾祖父の勲章箱
曾祖父の勲章箱には、日清戦争の従軍記章と日露戦争の従軍記章などが収められていました。
こちらが日清戦争(明治27年・西暦1894年)
こちらが日露戦争(明治37年・西暦1904年)
以上は、従軍記章と呼ばれるもので、戦役に参加した人すべてに授与されるものだそうです。
ただ、この下の勲章はそうではないようです。何らかの武功がないともらえないもののようです。
この金鵄勲章の「金鵄」とは日本神話に登場する黄金のトビ(タカ科)だそうです。google検索すると英語では”medal of golden kite”だそうです。
2.なぜ杉元は勲章をもらえなかったのか
ゴールデンカムイの主人公・杉元は銃創を負いながらも勇猛果敢に突撃し、単独白兵戦で敵部隊を全滅させて敵陣を奪取します。負傷しながら、このような武功を立てれば、勲章と恩給をもらえるはずです。しかし、杉元は人気のない小樽の川で砂金取りをしながら、もらえなかった理由を語ります。その理由とは、気に食わない上官を殴ったために、この勲章をもらえなくなってしまったのだと言うのです。確かにそういうことが規定にあって、勲章を受章した後でも取り上げられてしまうことがあったそうです。
(↓主人公・「不死身の」杉元佐一)
杉元がなぜ砂金を取っているかという理由も情景描写も、ゴールデンカムイの世界は独特の寂寥感が漂っているというか、少々暗い雰囲気を感じませんか?
その辺も時代背景を考慮に入れて作りこんでいるのかもしれません。
実は、日露戦争で日本は戦争に勝利することはできましたが、先の日清戦争と比較して、経済的にも人的にも多大な犠牲を払いました。それにもかかわらず、ロシアに対して賠償金を請求できず、しかも対外的な借金が残ります。戦時中から増税地獄で国民の不満が高まります。勝利したというのに、損失の方が大きかったようです。このことに関して日比谷焼打ち事件という暴動事件まで起こっています。
ゴールデンカムイでは、なんとなく暗い不景気な雰囲気を感じるのは、こういった時代背景があるからだと思われます。勝利はしても、満たされる思いをした人は少なかったようです。こうした時代背景が、杉元が砂金取りをしたり、第7師団やその他の勢力が金塊を取りに行くという状況にリアリティを持たせています。ということで、この不景気感を象徴する日比谷焼打ち事件をもう少し掘り下げてみます。
3.日比谷焼打ち事件
東京ミッドタウンから見下ろすと閑静な雰囲気の日比谷公園が眼下に広がり、その先には霞が関や皇居が見えます。警視庁がすぐ近くにあり、暴動が起こるなど今ではちょっと考えられないような気がします。
当時の日本では、戦争継続のための重い増税に苦しんでいた民衆が、戦争にやっと勝ったのに賠償金が取れないことに納得がいきませんでした。
そして、民衆は、その怒りの矛先を国民新聞社に向けます。
なぜ新聞社が焼打ちされるのかというと、政府は御用新聞を使って、連戦連勝報道ばかりして国民に真実を伝えていなかったからです。暴徒化した民衆は、内務大臣官邸や御用新聞と目されていた国民新聞社、交番などを焼打ちしていったそうです。
この事件は「当時の日本人は元気で勢いがあって過激だったんだな!」というような単純な話ではないようです。以下は、ウィキペディアと国立公文書館の「日露戦争特別展Ⅱ」で調べた資料を基にしています。ちなみに、この特別展の資料は当時の第3軍司令官乃木希典将軍の命令書などの公文書とリンクしており、それらを閲覧することができます。
ご覧になられたい方はこちらからどうぞ→ 日露戦争特別展Ⅱ
もう少し詳しく見ると、
当時の日本は戦争遂行のために多額の増税と国債の増発がなされ、外国から借金をかき集めながらぎりぎりの戦いをしていたということが分かります。
旅順攻囲戦勝利後、奉天会戦ではロシアの戦略的撤退により勝利し、日本海海戦では完勝した日本ですが、そこからの戦争継続は不可能となっていたのです。
あまりにも消耗が激しく、陣頭指揮を取る下士官が不足した上に、補充も来ない状態だったのです。弾薬類は日露戦争が始まった時点で生産能力を上回る消費が続いており、ドイツのクルップ社やイギリスのアームストロング社から弾薬を買い集めて凌いでいたのです。それに比べてロシアの国力は優勢で、人と者を動かすシベリア鉄道を介した補給線も整っていました。ロシア軍は、奉天撤退後はシベリア鉄道経由の増援で体制を立て直し、反撃の機会を窺っていたのです。
日本政府は、ロシア側に「戦争遂行不能」という内情を露見しないようにするために、情報統制をして連戦連勝報道だけを御用新聞に書かせていたのです。このため、民衆はまだ十分戦えると思っていたのです。
このような背景から、奉天会戦勝利後に世論は一気に高まりを見せます。これを受けて、内情を把握せず浮かれていた陸軍首脳部は、なんとウラジオストク攻略に着手しようと師団を樺太に動かしたのです。現場で実情を把握している大山巌満州軍総司令官が急遽、児玉源太郎を帰国させて理解があった海軍大臣山本権兵衛とともに戦線拡大の中止とポーツマス講和条約に向けての舵取りをするように説得にあたります。そうしてやっとのこと終戦に持ち込めたという経緯があるようです。
さて、上記の世論の高まりというのは、どのようなものだったかというと、戦時中、各戦勝を祝う提灯行列や旗行列、祝捷会があり、戦勝ムードが高まりを見せていたとのことです。そして、これらの戦勝を祝う行事を通じて、人びとが日比谷公園に度々集合していたそうです。なぜ日比谷かというと、つまりそういうことだったんです。これが、日比谷焼打ち事件の伏線となっていたのです。
また、当時は選挙権が制限されており、税金をたくさん納める金持ちしか投票できなかったため民衆は暴動という実力行使に訴える他なかったようです。
ちなみに、直接国税を10円以上納めた国民が選挙権を持つことができたようです。日露戦争前は、有権者の数は76万人だったそうですが、日露戦争の増税で有権者は自然に158万人へと増えたそうです。
そのような背景があって、
日露戦時下の増税等による生活苦や戦争で多大な犠牲が生じたこと、
戦勝報道で煽られた過大な講和条件への期待が裏切られたことから
日比谷焼打ち事件が起きたということです。
そして、日露戦争での約10万人の犠牲者と多額の戦費で満州の権益を獲得したという思いが、日本の対外政策に後々まで影響を及ぼすこととなったようです。
4.金鵄勲章の価値
上記のような不景気な社会情勢がゴールデンカムイの不景気そうな情景描写にも表れているのでしょう。そういったことも踏まえて、この勲章がもたらす経済的な側面をまずは見てみようと思います。
この勲章を貰うと、名誉であるとともに、結構な額の恩給がもらえたようです。
最低等級の功7級の金鵄勲章でも65円の恩給がもらえ、当時の貨幣価値で1円が2万円ぐらいだったと言われているので、年に130万円ぐらいもらえていたことになります。
昭和初期の二等兵の月給が8円80銭程度だったそうですから、兵士としては半年分の給料をいきなりボーナスとして貰えていたような感じでしょうか。
さらに、勲章の等級が上がるごとに年金額が増えていくようになっていたので、最高等級の1等だと900円の恩給がもらえたそうで、年に1,800万円ぐらいになる計算です。
なお、この金鵄勲章の授章者は日中戦争より後に急増し、財政的に問題となったため、一時金制となって国債の形で支給されるようになったそうです。しかし、その国債は、太平洋戦争の敗戦により、ただの紙切れとなってしまったそうです。
さて、経済面ばかりに目を当ててきましたが、武功という観点からもこの勲章はかなり実体を伴った名誉のあるものだったようです。
ゴールデンカムイの杉元も日露戦争帰りの復員兵として勲章など持っていなくても、尊敬の眼差しを向けられていたと思います。この勲章はそういった尊敬の念を具現化したものと言えるようです。
(↓陸軍の☆マーク付きの帽子をいつも被っている主人公の杉元)
特に、この勲章は武功の評価に段階が設けられており、きちんと調査の上、上官と部下との両方から評価されなければ受勲されなかったようです。
調べてみると、日露戦争では大量の授章者がいたようなので、激戦区を何度も転戦したという記録だけでも十分功ありとして、授章されたのでしょうか?
ただし、基本的には現場での実体のある武功がないと授与されないことから、階級を超えて尊敬を表す対象となっていたようです。
通常は、上官に対して先に敬礼をするのが当たり前ですが、この勲章を佩用※していると、上官が階級に関係なくこの勲章の佩用者に対して率先して敬礼をされていたそうです。
※佩用(はいよう)とは「身に帯びて用いること」だそうです。
曾祖父は、帰郷してからは、日露戦争の英雄として、学校行事には賓客として招かれていたそうです。その際には勲章を佩用して出席していたそうで、町内では有名人だったようです。
さて、その曾祖父の勲章箱の中身をさらに調べていると妙なものが出てきました。
(次回につづく)
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